
2026年3月12日 更新
2025年度ロッキーチャレンジ賞公式PV
(受賞者 瀬名波文野氏)をYouTubeで公開しました
2025年11月28日更新
2025年度ロッキーチャレンジ賞受賞者 瀬名波文野氏 記念講演
【講演まとめ】【要約(追体験版)】を掲載しました

株式会社リクルートホールディングス取締役 兼 常務執行役員 兼 COO、Indeed, Inc. 取締役 CPOの瀬名波文野氏(左)へ表彰楯が贈られた
2025年度ロッキーチャレンジ賞授賞式および受賞記念講演会は、2025年10月31日、琉球大学 全保連ステーション(大学会館)3階特別会議室で開催、会場は満席となりました。受賞者・瀬名波文野氏の講演は第30回琉球大学未来共創フォーラムの講演として行われ盛況のうちに終了しました。
受賞記念講演の内容は、以下の資料を掲載しています。
上記の資料は講演の要点と背景を分かりやすく整理したものです。ぜひご一読ください。
2025年ロッキーチャレンジ賞受賞者 瀬名波文野氏 記念講演
「沖縄から世界へ」講演まとめ
沖縄の普通の家庭で育った私は、小学校から中学校にかけてはスポーツに夢中でした。小学生のときはビート板バタ足の大会に出たり、中学ではバレー部に打ち込んだりしていました。小学校6年生のとき、親友が中学受験をするという話を聞き、私も同じ学校に行きたいと言い出しました。母からは「あなたみたいな人が行く所じゃない」と言われ、そこで初めて「塾」というものがあることを知り、母が過去問を買ってくれたことをきっかけに、小6から塾に通い始めました。中学では部活と塾を両立するごく普通の学生生活を送りました。
高校は、塾のすすめで受験した昭和薬科に進学しました。合格発表の日、公衆電話で友人の母から「合格していたわよ」と聞き、隣で泣いている友人の姿を見て、私はショックを受けました。「私がたまたま機会をもらうことは、誰かの機会を奪うことでもある」と気づき、その瞬間に本気で頑張ろうと決めました。実家は余裕があるわけではなく、私立の学費は想定外の負担だったはずです。制服採寸や教材費の高さに驚きながらも、母に「出るときは一番で出る」と約束して高校生活に向き合い、約束を守ることができました。
早稲田に進学し、5年間の学生生活を送りました。留学でサーフィンをしたり、シアトル近郊で狂言を学んだりするなど、興味の赴くままに過ごしました。「3年で寿退社」がビジョンだった私は就活も出遅れ気味でしたが、学費を出してくれた家族への責任もあり、短い間でも「3年間は一生懸命働いたよ」と言える会社に入りたいと思い、年齢や性別に関係なく仕事を任せてくれそうなところを探して、2006年にリクルートに入社。これが社会人としてのスタートでした。
27歳前後でロンドン赴任の機会を得ましたが、現地で孤立し最初は苦労と挫折を経験。評価面談での辛辣な指摘や孤独に直面して自分の力不足を痛感し、悔し涙を流しました。ですが気を入れ直してがむしゃらに動き、少しずつ信頼を築いて業績を回復させ、現地社長も経験しました。
社外取締役候補との出会いは素直な始まりでした。「一緒に仕事がしたい」とニューヨークまで直接会いに行ったものの一度は断られましたが、諦めずに帰国後に粘り強く関係を育てて数年かけて役員に就任していただけるようになりました。憧れていた方を社外取締役として迎えることができたのは、小さな初期衝動から始まった積み重ねの成果です。
人生は突然変わるものではなく地続きです。
目を閉じておにぎりを食べていた幼い頃の私から、Bloombergのカンファレンスに参加するような今の私まで、すべてが地続きでつながっていると感じています。
まずは自分の初期衝動を大切にしてください。道はつながっています。
あなたはどこにでも行けるのです。
Commemorative Lecture: “From Okinawa to the World”
Growing up in an ordinary family in Okinawa, I was completely absorbed in sports throughout my elementary and junior high school years. I competed in kickboard swimming races in elementary school, and devoted myself to the volleyball team in junior high. In the sixth grade, upon hearing that my best friend was taking a junior high school entrance exam, I blurted out that I wanted to go to the same school. My mother bluntly dismissed the idea, saying, “That’s not a place for someone like you.” That was when I first learned of the existence of “cram schools.” My mother bought me a book of past exam papers, which became the catalyst for me to start attending cram school from the sixth grade. In junior high, I led a perfectly normal student life, balancing my club activities with cram school.
For high school, at my cram school’s recommendation, I took the entrance exam for Showa Yakka University High School. On the day the results were announced, I found out I had passed through a public phone call from my friend’s mother. Seeing my friend crying right next to me, however, gave me a profound shock. I realized that “being granted an opportunity means someone else is denied it.” At that very moment, I resolved to give it my absolute all. My family was not wealthy, and the tuition for a private school must have been an unexpected financial burden. Surprised by the high costs of uniforms and textbooks, I promised my mother, “If I enroll, I will graduate at the top of my class”—a promise I ultimately kept.
I then went on to Waseda University, spending five fulfilling years enjoying a student life guided purely by my interests—whether it was surfing while studying abroad or learning Kyogen (traditional Japanese theater) near Seattle. Initially, my vision for the future was simply to “work for three years and retire to get married,” which made me a late starter in job hunting. However, feeling a sense of responsibility toward my family who had paid my tuition, I wanted to join a company where I could proudly say, “I worked as hard as I could,” even if only for those three years. Seeking a workplace that would entrust me with responsibilities regardless of my age or gender, I joined Recruit in 2006, marking the start of my professional career.
Around the age of 27, I was given the opportunity to be assigned to London. Initially, I experienced isolation, severe struggles, and setbacks. Facing harsh feedback during performance evaluations and profound loneliness, I painfully realized my own lack of capability and shed tears of frustration. But I pulled myself together, worked relentlessly with true proactivity, and gradually built trust to turn the business around, eventually serving as the local president.
My encounter with a candidate for our external director began with a pure, simple impulse. Driven by the single thought, “I want to work with this person,” I flew all the way to New York to meet them directly. Although I was turned down at first, I never gave up. I persistently nurtured the relationship after returning to Japan, and after several years, they agreed to join our board. Welcoming someone I so deeply admired as an external director was the fruition of continuous efforts that stemmed from a tiny initial impulse.
Life does not change overnight; it is an uninterrupted continuum.
I feel that everything is connected—from the little girl eating a rice ball with her eyes closed, to the person I am today, attending global conferences at Bloomberg.
First and foremost, please cherish your initial impulses. The path is always connected.
Your journey knows no bounds.
2025年ロッキーチャレンジ賞受賞者 瀬名波文野氏 記念講演
「沖縄から世界へ」要約(追体験・詳細版)

皆さん、こんにちは。初めまして、瀬名波です。
今日は3連休前の金曜日、しかもライバルはハロウィン。私だったら知らない人の話を聞きに、ちょっと学校には行かないかな、と。やや分が悪いなと思っていたんですが…こんなにたくさん来ていただいてありがとうございます。できる限り何か一つでも持ち帰っていただけるよう頑張りたいと思います。
沖縄生まれ、沖縄育ち
私は沖縄生まれ沖縄育ちで、普通のおうちで普通に育ちました。
幼い頃は2つ上の兄の後をどこへでも付いていく子で、家族写真を探すと真ん中で可愛く写る妹の後ろで、私が目をつぶっておにぎりか何かを食べている一枚が出てきました。
で、その写真、父がちょっと見切れてたり、母の髪型が気になったりはするんですけど、実は家族みんなで写ってる写真自体あんまりなくてその一枚が…ベストショットなんですよね。
リクルートでのキャリア
一応、公式版の自己紹介、しておいた方がよかろうということで。私はリクルートホールディングスという会社で働いています。2006年に新卒で入社しました。「3年で寿退社」のつもりで、なんとなく入ったというのが正直な経緯です。大きな転機になったのが2012年の海外駐在。ロンドンで仕事をすることになったんですが、そこでいろいろもがき闘うことになりました。このタイミングがまず一つ、大きなきっかけになったかなと思っています。
で、2018年に執行役員に就任、2020年には取締役に就任。当時は時価総額トップ50の中で最年少だったみたいで、女性だの年齢だの、まあ、いろいろ言われました。早くそういう取り上げられ方がなくなるといいな、とよく思っていました。で、2025年、現在はいろんなことをしています。と、いったところです。
リクルートという会社のことと
グローバルな私の日常
リクルートは1960年創業で、今年で65年目になります。従業員は約5万人。サービス展開国は60か国を超えています。皆さんが「リクルート」と聞いて思い浮かべるのは、ホットペッパーとかゼクシィとか、そういう国内メディアのイメージで、めちゃめちゃドメスティックな企業のイメージかなと思うんですけど、実は今は海外のビジネスの割合が大きいです。売上全体は約3兆5,500億円です。
沖縄県内企業トップ100社の2024年度売上合計が約2.5兆円、そこに1兆円を足したくらいが、私が関わっているグループの売上規模です。私たちがお手伝いさせていただいているメディアだと、Indeedが、学生の皆さんに一番近いかもしれません。Indeedは60か国以上で展開していて、グローバルで毎分27人がIndeedを経由して仕事を決めています。
私は普段、日本とアメリカを行き来しながら、ZOOMやMeet越しに毎日いろんな国のいろんな人たちと仕事をしています。ときには12分割の画面越しに、それぞれ違う国や役割の人と同時にやり取りしています。アメリカにいても日本のチームと仕事をするし、日本にいてもアメリカのチームと仕事をする。たまにBloombergなどの海外メディアに呼ばれて、対談や登壇をすることもあります。そんな日常です。
今日お話ししたいこと
今日お話しするのは、
沖縄生まれで沖縄の普通のおうちで普通に育った私が、日本とアメリカを行き来して仕事するような今の私になるまでの話です。
一番伝えたいのは、「地続きだ」ということなんですよね。
沖縄から日々が地続きでつながって、今がある。全然、遠くない。
グローバルで仕事をすることは、全然レアじゃない。
今ここにいる皆さんと、めちゃくちゃ地続きだよ。
そう思ってもらえるといいなと思っています。
沖縄 編 — もっと広い世界を見てみたい!(人生の前半戦)
まずは「沖縄編」。
きっかけになった出来事を中心に大学進学までの人生前半戦を振り返ってみたいと思います。
小〜中学校時代:スポーツ少女と塾デビュー
小学校1年生の頃、ビート板バタ足大会に出場していた写真が残っていて、当時からずっとスポーツが好きでした。中学では地元の公立校でバレー部に所属し、部活漬けの毎日。
そんな小6のある日、仲の良い親友が昭和薬科の中学受験をすると聞いて、「じゃあ私も」と思い立ち、母に「昭和薬科に行きたい」と宣言。
すると母が開口一番、「あなたみたいな人が行くとこじゃないのよ」とバッサリ。
とはいえ私は成績も悪くなかったし、「やってみないとわかんないじゃん」と反論。
すると母が「じゃあ過去問買いに行こう」と言い出し、北谷の国体道路沿いの本屋へ。
昭和薬科の過去問を買って帰ったものの、まったく意味がわからない。文章の意味すら不明で「ミスプリじゃない?」と母に訴えると、「だからそういうことなのよ。ここはちゃんと勉強した子が受ける学校なの」と諭され、そこで初めて“塾”という存在を知り、塾デビューしました。
とはいうものの、受験への目覚めも特になく、部活終わりに塾へ行くという普通の中学生活を送っていました。
中学生活と昭和薬科高校受験
部活中心の楽しい中学生活を送りつつ、成績も良かったので、塾の先生に私立受験を勧められて昭和薬科大学附属高校を受験(当時は高入生ルートあり)。
とはいえ、私立に行く気はゼロ。
友達と一緒に近くの高校に行ってバイトして恋愛して…という普通の高校生活をイメージしてたので、受験は「一応」でした。
合格発表と衝撃の涙
中3の冬、職員室前の廊下で掃除中、近くの公衆電話で仲の良かった女の子が母親と話していて、「文野ちゃん、電話代わって」と言われ受話器を取ると「文野ちゃん昭和薬科受かってたわ。今日合格発表で私見に行って名前あったから、おめでとう」と告げられました。
私は「え、今日合格発表? 知らなかったし、行くつもりないです。あはは」って答えたその瞬間、パッて横を見たら、その子がすごい泣いてて。
彼女は本気で勉強して受験して落ちた。
私はなんとなく受けて受かった。
今でも思い出すと泣いちゃいそうになるんですけど、あのとき、「機会をもらうっていうことは、誰かの機会を奪っているってことでもある」っていうのを、すごくショックを受けながら初めて実感したんです。それで、「よし、もう昭和薬科に行こう」とその瞬間に決めました。
家に帰って「私立に行きます。学費3年分お願いします」と両親に直談判しました。
親からすれば青天の霹靂。「何?受験してたの?」「受かってたの?」と混乱する中、私は公衆電話での出来事、泣いてた友達のことを話し「ここで行かないって選択肢はないと思ったんだよね」と説明し、学費を出してくれるよう説得しました。
入学と母の爆睡
入学前の制服採寸やオリエンテーションでは、制服や教材の高さに驚愕。隣の保護者たちが真剣にメモを取る中、うちの母は爆睡。娘もダメダメだけど母もダメ。そんな中、「多分ビリで入ってる。でも、出るときは一番で出る。絶対頑張る」と母に宣言(後に聞いたら母は全然覚えてなかったけど私には大事な約束だった!)。
高校時代:約束を果たす
その約束を胸に、高校ではそれなりに頑張りました。実家に泊まった際、成績表が出てきて確認したら、1年生の時は12番くらいだったのが、3年で卒業する時には一番。だから私は「自分のパートはやりきった」と思っているんですけど、母は「そんな話したっけ?」と完全に忘れていて、ちょっとがっかり。
早稲田入学と就職活動
無事に早稲田に入学。大学ではサーフィン留学したり、シアトル近郊の大学で狂言を研究する変わったアメリカ人教授のもとに通ったり、私立の上に、5年も通いました。
就職活動の時期になっても、キャリアについて真面目に考えていたわけではなく、そもそも「3年働いたら寿退社する」というのが私のビジョンだったので、就活も出遅れ気味。
ただ、学費を出してもらっている以上、「3年間は一生懸命働いたよ」と言える会社に入りたいと思い、年齢や性別に関係なく仕事を任せてくれそうなところを探して受けていたら、たまたまリクルートにも受かったので、2006年に入社。これが社会人としてのスタートでした。
海外編 — 最初の転機
ここから海外編です。
いくつか転機がありまして、その中から一つ、お話ししようかなと思います。
最初の大きな転機は、27ぐらいの時。
ちょうどリクルートグループが海外進出を始めた頃で、社内に「この仕事をやりたい人はいませんか?」というオープンポストが出ました。買収したばかりの海外子会社で経営するという内容です。当時私あたしは仕事が楽しくなっていて、寿退社どころか、どんどんのめり込んでいるフェーズでした。海外で働いてみたい、かっこよさそう、面白そう、行けるなら行ってみたい、という気持ちがあって、社内での業績も良かったので手を挙げてみました。
応募要項:派遣事業経験・事業運営レベルのファイナンス知識・マネジメント経験・ビジネス英語。
当時の私はといえば…マネジメント経験なし、役職にもつきたくない、ファイナンスも財務諸表を見て判断できるレベルではない。派遣事業も未経験。英語も、サーフィン留学はしてたけど、ビジネス英語は全然。まあ、ほとんど何も満たしてなかったんですよね。
それでも応募して面接を受けて、面白がってくれる人がいたんだと思うんですけど、ロンドンに行けることになりました。
社会人7年目くらい。経験もスキルも足りない状態でしたが、「なんかやってくれそう」という期待?を背に、海外出向ということになりました。
ロンドン赴任と最初の挫折
当時私は20代。買収された側の現地の皆さんからすると、「誰こいつ?」。リクルートっていう聞いたこともない極東の会社から全然わかんない姉ちゃん来たぞ、となるわけですよ。自分たちの方が事業もマーケットもわかってるのに。どうやって早く本社に帰す?みたいな空気になる。
でも、ウチの会社のいいところは、買収後に大挙して現地入りしないこと。
現地のマネジメントと一緒に経営を良くする方針で、派遣されたのは私一人。
最初から最後までロンドンは私だけ。
で、現地の皆さんからは…まあ、ニコニコ対応してくれるんですけど、数字も財務も出してもらえず。仕事はさせてくれない。仲間と認めてくれない。だいぶきつかったです。
営業で楽しく仕事して業績もよかった東京のキャリアを捨ててまで選んできたのに、なんにもできなくて。「なんで来ちゃったんだろう」「誰も幸せにしてない」と思って。シビアな半年間。ずっと帰りたいと思ってました。
…で、一番のlow pointは、半年に一回の評価面談。私の上司は現地法人のイギリス人の社長ですから、彼と私の間で評価がなされるわけです。今でも覚えてます。
「セナは頑張り屋で、事業にも溶け込んでて、良い提案もしてくれる。リクルートグループにとって宝なので、早めに本社に帰って、大事な仕事をされた方がいいと思います」――イギリス人的に言えば、「使えないから今すぐ返せ」っていう本社へのメッセージ。
現地社長からすれば、本社からスパイみたいなのが来て自分の下にいる状況は面白くない。
だから、“丁重に包んでお返ししますよ”的な辛辣なレビューを書かれて。
私はそれを読んで、「アンフェアだな」と思って、レビューをビリビリに破いて。金曜日だったんですけど、泣きながら家に帰って、悔しくて。「どうやったら戦えるんだろう」「日本に帰りたい」泣き疲れて寝て。
土曜日に起きて、お腹空いて、外に出たら、すごくいい天気で。珍しくロンドンが晴れてて、木漏れ日が差してて。内省するタイミングが訪れて。
「でもこれ、私のせいだよな」と。
身の丈以上のジョブに応募して、運よく選ばれて。邪魔されてるとか意地悪されてるとか言ってるけど、結局役に立ってないよね、っていうのが腹に落ちて。
もっとスマートなやり方を提案するとか、仲間になれるような動き方をしないと、何もできないまま帰るしかなくなる。それは嫌だな、って。
今どん底。でも誰のせいにもできない。自分で選んで来たんだ。難しいのは当然。打開できないのは自分の能力不足。そこを直視して、がむしゃらに、素直に動いて。結果的にはうまくいって、意地悪だった上司が、「次はセナに社長をお願いしたい」と言ってくれて。私は現地の社長になるんですけど。そんなことが、まあ、私の転機になったかなと思ってます。
最終的には、身の丈以上のチャレンジで、泣きながら踏ん張った結果、業績も回復して、仲間もできて。今振り返ると、20代後半で、目の色もカルチャーも違う人たちと本当に仲間になれたっていう実感はすごく大きかったなと。
本当の意味で仲間になることは、誰とでもできるんだっていう事実。
そして、私が言ってたことが正しかったとしても、嫌いなやつに正しいこと言われたら、余計カチンとくる。みんなムカつくっていう真実。
人生にとって大事なことを、あの期間で学べた気がしていて。
そういう機会に恵まれたことに、今となってはすごく感謝してます。…たぶん。
初期衝動・アプローチ編
「めちゃくちゃ素敵な人いました」
無事にいい状態になったので、あとは現地のマネジメントに託して、私は日本に帰ってくるんですけど。ロンドンで社長までやったけど…そろそろ辞め時かなと思ってたりもして。
でも日々の積み重ねの中で、地味な初期衝動っていうか、もっと「こういうこと」が「こう」できたらいいのにって思う素直な気持ちがだんだん生まれてそれでいろいろ動いてるうちに、役員になって、取締役になってる自分がいて。
結局そのサイクルがどんどん大きくなってきてるだけかな〜って思ってます。
ある時、とあるカンファレンスにオーディエンスとして参加したら、壇上の方がめちゃくちゃ素敵だったんですよ。
年齢もキャリアも上で、世界的なオーガニゼーションのトップで働いてた方。
講演後に名刺交換して「リクルートホールディングスの瀬名波です。すごく面白かったです」と話して。あまりに素敵だったから、忘れられなくて。
社に戻って社長に、ぽろっと言ったんです。「めちゃくちゃ素敵な人いました」って。
「社外取締役になってもらえたらすごくいいと思う」と。
でも身の丈以上で、普通にアプローチしても絶対来てくれない。
「名刺交換したの?」と聞かれて、「しましたよ」と答えて、「じゃあメールしてみますね」と。
…と。送ったつもりが、送ってなくて。
ドラフトに残ってたメール、慌てて送ったら、24時間以内に返信が来たんです。
もう速攻、翌日、社長に報告しました。
「返信来ました!これはチャンスです。シャッターが1ミリ開いてるかもしれません」
「驚かせるぐらい好きですって言わないとダメです」
「社長、手帳持ってきてください」
それで、手帳を手にした社長に即座に畳み掛けて、
「ニューヨークまで行きましょう!」
社長、手帳をパラパラ見て、ぽつりと「1週間ぐらいはフライトの時間を取れないな」と言うので、
「一週間後だったら行けますね。行きましょう!」と即決。
先方に「たまたまニューヨークに行くので朝食なんかどうですか?」と誘ったら、
「分かりました」と返事がもらえたんで、ひとまず「よし!」と。
…朝食って断りづらいんですよ。
「ご一緒してもいいですか?」
で、渡米直前、直前で隠してたカードを切ったんです。
「社長も一緒なんですけど、ご一緒してもいいですか?」って。
…もう「いい」って言うしかないじゃないですか、向こうからしたら。
その日は、もう、すごい寒い冬の日。
なんというか、ザ・ニューヨーク!みたいなビルの上の、
おっしゃれ〜なカフェみたいなところで、あの、
「好きです!!」
みたいな。…まあ好きとは言ってないんですけど。
そこで初めて、社長を引き連れて「当社の…仲間になっていただきたい!」みたいな話をして。
…で、振られてるんですよ私たち。
「あの…何々委員の委員ではいかがでしょうか?」
で、まあ…日本に戻って。
「社長、すいませんでした」「全然シャッター開きませんでしたね」と。
でもまだ諦められなくて、もっと当社のことを知ってもらえれば、仲間になってもいいと思ってもらえるかもしれない。
それで、「社外取締役よりカジュアルな、法的責任のないアドバイザリー契約でまずお願いしてみるのはどうですか。社長、もう一回行きましょう」と。
で、懸命にお願いしたら、渋々「わかりました」と。委員になってもらったんです。
で、2年間そのホニャホニャ委員をやっていただいたら、
「リクルートさんのことよくわかったし、グローバルでやってるのも新鮮です。これまでの経験が生かせるかもしれない」と言ってくださって。
3、4年越しで、役員に招くことができた、みたいなことがあったりするんですね。
なんか、そういうことなんですよ。わかります?
ふつ〜うの会社が、私たちぐらいの規模だと、社外取締役とか役員とかになると、
エグゼクティブエージェント使って、リスト出してスマートにやるんですよ。私たちもそのプロセスやるんですけど。
でも魂がこもる仕事の時には、紆余曲折の結果、普通にやってたら絶対ゴールできないゴールに点が入ることがあって。
そういうことに動かされて、3年で寿退社するはずだったのに、まだ仕事してる、っていうことなのかな〜って思ってます。
方位磁石:どこでも行けるよ
ちょうどこの間、日本取締役協会が主催する「コーポレートガバナンス・オブ・ザ・イヤー2024」で大賞をいただきました。
その年の企業統治が一番イケてる日本企業として表彰されたんです。
こういう、いわゆるコーポレートオフィシャルな仕事の裏側にも、
はじめに「あの人とご一緒できたら嬉しいな」みたいな、すごく素朴な初期衝動があって、
それがつながって、つながって、つながって、つながって──
…で、いつか形になる、そう思います。
さっき言ったように、グジュグジュしておにぎり食べて目を閉じている頃の私から、Bloomberg のカンファレンスに出たりする今の私まで、ちゃんと「地続き」なんです。
「すごく素敵だ」と思った相手に勇気を出して名刺交換に行き、
「ご一緒に仕事がしたいです」と伝えるみたいなことも、
あの手この手を尽くして社長まで引っ張り出したのに振られる!みたいなことも
全部おにぎり食べて目を閉じている頃の私からつながってる、
同じ地続き(の世界)だよって、そう思ってます。
学生の皆さんに伝えたいことはただ一つ。
どこでも行けるよ。
…終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
要約 top /今日お話ししたいこと/ 沖縄 編 (人生の前半戦) / 海外編 — 最初の転機 / 初期衝動・アプローチ編 / 方位磁石:どこでも行けるよ

仲村巖チャレンジ基金では「2025年ロッキーチャレンジ賞」を株式会社リクルートホールディングス取締役 兼 常務執行役員 兼 Chief Operating Officer、Indeed, Inc. 取締役 CPOの瀬名波 文野(せなは あやの)氏に贈呈することといたしましたのでお知らせいたします。
「ロッキーチャレンジ賞」は「外界志向」「志」「チャレンジ精神」の点で、沖縄の若い人材の目標となる個人、または、グループを賞賛し、その活動を応援するため、賞金100万円と表彰楯を贈呈致します。
瀬名波 氏は、沖縄県北谷町出身で、昭和薬科大付属高校卒業後、早稲田大学政治経済学部へ進学。2006年、大学卒業後に株式会社リクルート入社2018年、同社執行役員に就任。2021年より取締役 兼 常務執行役員 兼 COOとして人事・総務本部、ファイナンス本部、リスクマネジメント本部、経営企画本部にて経営企画、Sustainability Transformationを担当。2006年にリクルートへ新卒入社して以降、キャリアのかなり早期の20代にて単身イギリスに渡り当時最年少で海外現地法人の社長を務めるなど、常に「身の丈以上」の仕事に挑戦。現在では北米、ヨーロッパ、そして日本の三拠点を往来し、世界中でグローバル企業の経営に尽力されています。
当基金では、瀬名波 氏の世界に貢献するその姿勢が、ロッキーチャレンジ賞の趣旨にふさわしいものと考え2025年ロッキーチャレンジ賞を贈呈することに決定いたしました。
同氏の体現する「外界志向」と「志」および「チャレンジ精神」が模範となり、あとに続く沖縄の未来の大器の夢と目標と挑戦が生まれることを期待しております。
2025年10月31日(金)16時開始に、琉球大学全保連ステーション大学会館3Fを会場としてロッキーチャレンジ賞授賞式が開催され、賞金100万円および受賞記念楯が贈呈されます。授賞式に続き、琉大未来共創フォーラムにおいて瀬名波氏による講話が行われます。その様子は後日、琉球大学地域連携推進機構のYouTubeチャンネル内にて公開予定となっておりますので、来場が叶わない方はご視聴いただければと思います。
仲村巌チャレンジ基金 代表 仲村巖


ロッキーチャレンジ賞PRビデオ公式チャンネル
(YouTube)
https://www.youtube.com/@ロッキーチャレンジ賞公式チャンネル






